こんにちは。凛奈(life_rinna0)です。
私がHSPである事はこれまでの記事でもお伝えしておりますが、今回は私の AC(アダルトチルドレン)の体験談についてお話しさせて頂きたいと思います。
AC(アダルトチルドレン)とは、子供時代に 機能不全家族(虐待や家族間での不仲、または過保護過ぎる家庭など)で育った為、大人になっても生き辛さを感じている人達の事をいいます。
私が初めてこの言葉の存在を知ったのは、15年以上前の高校生の時でした。
当時の友人に指摘され、自分で診断テストをしたところ、ACに該当していると思いました。
その時の感想は、確かに自分は当てはまっているけど、ACにはもっと辛い人が沢山いるんだろうなぁって。
うちより酷い家庭はもっとあるし、私はまだ恵まれている方。なのにいつも落ち込み過ぎている私がいけない。
ACという言葉に甘えてしまう自分が嫌だったんです。
なので、ずっと目を伏せたまま、その5年後くらいにHSPを知ったのですが、当時は世間に全く認知されておらず、こちらも腑に落ちず。。
自分を認められるようになったのは、更にそこから10年経った頃。
世の中でHSPやACが認知されるようになってからようやく、 ACでHSPってかなりしんどい事なんだって気付きまして。
その時、いつも深く落ち込んでしまうのも仕方ない事なんだなって、少しずつ自分を認められるようになっていったんですね。
HSPの認識はあっても、ACについてはまだ知らないという方も多いと思いますので、私の実体験を一例としてお伝え出来ればと思います。
今回はまず、私の両親についてお話させて頂きました。
機能不全家族
全ての基準は父
当時、私の家族は父、母、兄、祖父母の6人家族。
私達家族が住んでいたは、木造二階建ての一軒家。
両親も祖父母も共に、近所付き合いが多く、自宅には頻繁にお客さんが訪ねて来ていた。
父は典型的な外向型で、初対面であろうと誰にでも自分から声をかけて積極的にコミュニケーションをとるタイプ。
ニコニコしながら話すので一見、陽気な人柄で人当たりはいいが、一方で気が荒い一面があり、何か気に食わない事があればすぐに気を悪くし、怒鳴り声を上げた。
幼い頃、父は私が何か仕出かすと、一階の廊下の先、一番奥にある物置部屋に閉じ込めるか、二階のベランダに閉め出した。
物置き部屋の場合は、泣き叫ぶ私の腕を強引に引っ張って長い廊下を引きずり歩き、私を叩きつけるようにして真っ暗な部屋に閉じ込めた。
ドアの外側から突っ張り棒で固定されているからドアは開けられない。
物置部屋はただ真っ暗で怖いから、力尽きるまで泣いたら膝を抱えてうずくまり、頃合いを見て母が鍵を開けにきてくれるのをひたすら待っていた。
ベランダの場合、父は私の身体を丸ごと逆さまにして持ち上げ、そのまま手すりの向こう側に私の体を突き出し、鬼のような形相で「バカ!このまま落とすぞ」と何度も脅した。
私はただ、「ごめんなさい、許して下さい」と泣き喚いていた。
大概はそのまま閉め出され鍵を鍵けられてしまう。
外で泣き続けると余計怒られるから、私は泣きべそをかきながら、やはり、頃合いを見て母が鍵を開けて部屋に入れてくれるのを待っていた。
TVではサザエさんに出てくる波平さんが悪さをしたカツオ君をよく外の物置きに閉じ込めているけど、それと父とは明らかに違うと感じていた。
父は私以外の家族にも厳しかった。
兄に対しても乱暴で、どこかに閉じ込めるのはもちろん、突き飛ばしたり、テーブルに顔を押し付けたり、ともかく力で押さえつけていた。
また、母や祖父母達ともよく喧嘩していた為、家の中では父が誰かに怒鳴りつける声が度々響いていた。
父は基本、自分の非を認めない。
人のせいにするか、散々怒りを吐き散らした後にもういい!と自分で話を断ち切るかのどちらかだった。
何が正しいか間違いかの問題は問題ではなく、父の気に触ったかどうかが問題だった。
父が理解出来なかった
木造一軒家の一階は主に水回り、それから祖父母の達の部屋や客間があり、両親と私と兄の子供部屋は二階にあった。
二階の部屋は、襖(ふすま)で仕切られた二部屋で、一方を私と兄の子供部屋、もう一方を父と母の寝室として分けていた。
薄い襖一枚、余程声を小さくして話さない限り、互いの部屋の話し声は筒抜けだった。
私が小学校に上がる少し前だったか、ある日の深夜、襖越しに聞こえる両親の話し声で目が覚めた。
父と母が何やら口論しているようで、特に父が捲し立てるように声を荒げている声が聞こえた。
母も何か言い返してはいたが、何か喉に詰まらせたように話す少し高めのか細い声からは、何を言っているかは上手く聞き取れなかった。
それとは対照的に、元々大きく太い声の父の怒鳴り声は嫌と言うほどハッキリと聞き取る事が出来た。
「お前が悪い!」と責任を一方的に母に押し付けてるような言葉が多かったと思うが、それらの言葉の合間に、何度も繰り返して聞こえてきたのは、
「あいつらなんていらない。子供ら連れてさっさと出て行け!」
他にも乱暴な言葉は聞こえてきたが、この言葉が特に頭から離れなかった。
私は兄が上段で眠ている二段ベッドの下段で布団に潜り込みながら声を押し殺し、なるべく鼻水を啜る音が出ないようにして泣いていた。
その日に限らず父と母の深夜の喧嘩は頻繁に起き、時にはドンッ!バンッ!と母がぶたれているでだろう音がしていた。
私が襖を開けて「止めて」と泣きながら訴える姿を見せれば、父が正気を取り戻すかもしれない。
そんな事を頭で考えながらも、行動に移す勇気は持ち合わせておらず、掛け布団を出来る限り自分の体に掻き集め、心臓をバクバクさせながら早く終息してくれと願うばかりだった。
二段ベッドの上段で眠る兄も、激しい喧嘩の音に何度も目が覚めていたに違いないし、私と同じように声を押し殺して泣いていたかもしれない。
けれど、その事について兄妹で話す事はなかった。話したところでどうにもならない事だとお互い分かっていたからだと思う。
そんな日々が続いていた中、父に対して唯一叱りつける事ができた祖父が亡くなった。
祖父が叱りつけたところで、父は言う事は聞かなかったが、家族の中で父に対抗出来る唯一の人物だった。
祖父が亡くなって以降、家の中で父の怒鳴り声が響く回数が増えた。
父が誰かに罰を与える事はあっても、誰かが父に罰を与える事は出来ないし、対抗出来る人間ももういない。
全てが父中心で廻っている。
私は父がまるで理解出来なかった。
どんなに怒りをばら撒いても、翌日には何事もなかったかのように過ごしている父。
機嫌が良い時の優しさが怖かったし、好きじゃなかった。
なぜこの人だけこんなに自由なんだろう。
なぜ周りばかりが我慢して、この人だけ全て許されるのだろう。
なぜこの人はこんなに笑っているのだろう。
なぜこんな男が私の父なのだろう。
救いだった母は救えない
母も父と同様、外向型タイプで基本的に明るく、周囲の人達にも愛想は良かった。
ご近所付き合いも笑顔でこなしていたし、昔は習い事をしていたり、好奇心もある方だった。
社交的な母と父は二人で飲食店を営んでいた。
バブル崩壊するまではある程度繁盛していたようだったが、その後は日に日に客足が遠退いていき、経営は厳しくなっていった。
母はパートと掛け持ちするようになったが、それでも家計は厳しかったようで、私と兄のお年玉貯金を支払いに当てていた時もあった。
それでも父は、店の売り上げがたまたま良かったりすれば、すぐにそのお金を外での飲み代に使っていたりしていた。
私は当初、父と母が揉めているのは、いつもお金の事についてだと思っていたが、後に、父は女癖も悪かった事が喧嘩の様子から伺い知れた。
手のつけられない夫に加え、祖母との嫁姑題もあった。
更に小学生の中学年に入った兄と私は反抗期もあり、殆ど口もきかない。
何より経済面での不安。
よくある話で、ただでは正気でいられなくなっていた母が風水や占いにハマり出したのは、ごく自然な流れだった。
家具の配置を一斉に変えたかと思えば、パワーストーンなどのブレスレットを身につけるようになり、私と兄にいくつかのお守りを持たせたりするようになった。
幼い頃、私は父が怖くても母が優しければと思っていた。
しかし、物心がついていくにつれ、母の発言にも敏感になっていき、父も父だが、母も大概だと、年を重ねる事に母に対しても不安が積もって来ていた。
そんな中、日毎スピリチュアルの世界にのめり込んでいく母の姿はただ痛々しく、ただ引いた目でしか見られなかった。
気がつけば母の本棚にはスピリチュアルな本で埋まっていた。
もう何を言っても無駄だし、この人とはなるべく関わないようにした方がいいと、私は母とも距離を置くようになった。
中編の記事に続きます。
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